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ローマの歴史
ローマの長い歴史を大きく区分すれば、政治制度を基準とすれば、王政時代(国王支配の時代)、共和政時代(君主の存在しない時代)、帝政時代(皇帝支配の時代)の三つに分けられ、国家規模を基準とすれば、都市国家時代、イタリア半島統一戦争時代、地中海世界征服時代の三つに分けられる。政治制度の変化を通じて時代区分し、その中でローマの対外発展の歴史も見ます。
共和政時代は初期と中期と後期に分けられます。政治制度において、初期は貴族政時代、中期、後期は民主政時代、対外発展においては、初期は都市国家時代からイタリア半島統一戦争時代、中期と後期は地中海世界征服時代と言えます。
前494年にパトリキ支配に不満を持つプレブスがローマ市から退去し、身分闘争が始まります。護民官は任期1年、定員10名(平民会で選出される)の同僚制、元老院への拒否権を持っています。十二表法は裁判の公正さと法知識の公開を求めた、上層プレブスの要求により制定されましたが、ここでは平民会の議決が元老院の承認を得てローマの国法となることも定められました。リキニウス・セクスティウス法は護民官の地位にあったガイウス・リキニウスとルキウス・セクスティウスの2名によりなされた平民救済のための改革で上記内容のほか、公有地の占有面積を5百ユゲラに制限することも定められました。
ホルテンシウス法でもって「民主政」が完成したと言われますが、その実態はパトリキと上層プレブスが結合してノビレスと呼ばれる新たな支配層が形成され、このノビレスが官職を独占する体制が成立したので、結局は財産を持つ有力者のみの政治である、中下層プレブスは政治の実権を持たなかったローマの民主政はギリシャの民主政に比べて不徹底でした。
前9世紀から地中海貿易に活躍していたフェニキア人は地中海沿岸各地に多数の植民都市を建設していましたが、その中で最大規模の都市が北アフリカの地中海中部に突き出た岬にあるカルタゴでした。ローマがイタリア半島のみならず地中海沿岸にその領土を拡大していることを意味しました。ローマが始めて属州を獲得した第1次戦争、ヒスパニアから象部隊を引き連れてアルプス山脈を越えイタリアに攻め入ったカルタゴの将軍ハンニバルが活躍したために、別名ハンニバル戦争と言われる第2次戦争、この三度の戦争にローマが最終的に勝利し得た要因は貿易大国カルタゴが外国人傭兵部隊に頼っていたのに、ローマは市民皆兵の軍を組織して人的資源においてカルタゴにまさっていたからです。
元老院を重視する閥族派と平民会に足場をおく民衆派とが対立したとは言えて民主政成立過程でみられたような貴族対平民の身分闘争では決しなく、閥族派も民衆派もその指導者は巨大な財産を持つ有力市民で人脈を通じて自己の党派を作り上げ、権力の座をめぐって互いに烈しく闘っていたにすぎません。その党派とは親分子分の関係を基礎としていたが民衆派のマリウスは無産市民から志願者を募り、武器を与えて兵士と兵士を辞めた後は農地を与えることを約束することで、彼らを子分としてつなぎ止め、マリウス個人の私的な軍団を創ったが、これは武器の自弁を前提とする伝統的なローマ軍の根本的な転換を意味するものでした。第1にマリウス軍団に入るためには財産は必要ないという点において、第2にマリウス軍団はマリウスを司令官とした私的な軍団であり、ローマの国軍ではないという点におきました。この兵制改革は重装歩兵隊の弱体化という現状に即応したもので、ゲルマン人との戦いに勝利するなど成果を収めましたが、マリウス以外の有力市民すなわち官職を得て政治家となったその他大勢の有力市民もマリウスの改革に習って、自己の軍団を創り上げ、おのおの私的な軍団を所有する将軍となり、そのような政治家=将軍が多数現れ、自己の軍団の実力を背景に権力闘争をくりひろげる内乱時代となり、ローマ社会の変質は決定的なものとりました。
ローマの七丘
ローマの七丘はローマの市街中心部からテヴェレ川東に位置する古代ローマ時代の七つの丘です。ローマで7つの丘が最も有名です。古代ローマの中心部、セルウィウスの城塞の内側にあります。
ローマの七丘は次どおりです。
アウェンティヌスこの丘にはレムスが住むことを決めました。歴史時代には一般大衆の家がある、そして、紀元前5世紀にケレス女神の神殿が建てられました。
カエリウス 紀元前7世紀のローマ第3代の王トゥルス・ホスティリウスは近隣のアルバ・ロンガを破壊し、強制的にカエリウスの丘に移住させました。ティトゥス・リウィウスの語る伝説によれば、この丘の名はカエリウス・ウィベンナにちなむと言います。彼がこの定住地を建設したから、友人であるローマ第6代の王セルウィウス・トゥリウスが彼の死を悼んだからです。 共和制ローマ時代にカエリウスの丘は高級住宅地であり、裕福な人の居住区でした。カラカラの大浴場の発掘により、壁画やモザイクで仕上げられたぜいたくな建物が見つかりました。カエリウスにはサンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロ教会とサント・ステファノ・ロトンド聖堂もあります。
カピトリヌス この丘はローマの最初期の要塞の多くがある場所です。政治の丘でもありました。ユピテル・オプティムス・マクシムス、ユノー・モネタとコンコルドの神殿りました。
エスクィリヌス この丘は紀元前700年から壁に囲まれた都市でした。
パラティヌス この丘はロムルスの丘です。歴史時代にローマの富裕層と有力者がここに住んでいました。壁に囲まれた村々と墓がここにみられ、その村に住む人は紀元前700年から大きい勢力を有しました。マグナ・マテルの神殿がパラティヌスにありました。
クィリナリス この丘にサビニ人が住んで、この街を作くりました。考古学的証拠でこの丘に紀元前8世紀から人が住んでいて、墓や壁や村が発掘されています。
ウィミナリス これは七丘の中で最小の丘です。最後にローマの城壁に含まれるようになりました。
伝説によるとローマ市は最初にロムルスによって、パラティヌスの丘に作られたと言います。